劇団だるい・正直者達を思い返す
Sep 2, 2020
編集中ですが公開中。
[画像は劇団だるいホームページより]
よく参加させてもらってるPlatformが10周年を迎えた。めでたい。
5年前に初めて関わって、以降、何度も出演させてもらった。
公演記録を見ると、少なくとも45ステージ出演している。
劇団だるいはどうだったんだろう、と思ってカウントすると、少なくとも55ステージ。正直者達は13ステージ。そんなにやったのか。
ここ5年は即興芝居に主に出演していたが、自分が作・演出を務めていた劇団だるい・正直者達を思い返してみたくなった。
→劇団だるいホームページ(上演台本も載ってます。申請すれば無料利用可能)
まったく個人的な振り返りになるので、団体としての公式見解とかそういうものではないです。
そして、ただの垂れ流しなので長くて読みづらいです。
それでは振り返ります。
2007年3月 劇団だるい001「夢見がちハイツ」
すがるように演劇を始めた時期。
会社員1年目だった。「演劇できなければ何をやってもいっしょだ」という気持ちがどこかにあったので、就職活動での自己分析もろくにやらず、仕事そのものへの興味があるわけではなかった。
そんな自分を打開するために、コツコツ努力するわけではなく、なんか今持ってる力で一発逆転してやろうと考えていた。結果、失敗した。入社直後に大スベリをかまし、会社にいづらくなった。初期の研修ですら、登校拒否したくなる毎日だった。
その後、配属され、仕事を始めるがそこでもかなり辛い日々を送ることになる。職場全体として「新人は苦労させる、辛い気持ちにさせる」というのが暗黙の方針としてあったように思う。なるべく自信を喪失させ、会社としての文化の刷り込みをする、という効果があると思う。それをまともにくらい、もはや絶望的な気分になっていた。
そのとき、大島さんが劇団だるいをやる、と聞いた。「私も入れてください」とすぐさま伝えた。
もはや仕事が辛すぎて、でもやりたい仕事もないので耐えるしかなくて、あんまり記憶がない。でも演劇がやれるのだけが楽しくてなんとかやっていた。本当に、劇団だるいがなかったらまずかったかもしれない。
このときは大島さんの作品のみ。私は出演1作品のみ。
大島さんの作品は困難と苦労と希望にあふれている。演じている私も、多分に救われた。
2007年9月 劇団だるい002「くるま割り人形~割り忘れ編~」
タイトルがセンスいいと思っている。正直者達との合同公演。
この時期は精神疾患1回目の時期とバッチリ重なっていた。あまり記憶がない。稽古中、少し休憩すると、もうそこから立ち上がれない状態だった。このときも劇団だるいがなかったらまずかったかもしれない。
ここで私も劇団だるいの脚本を担当しはじめる。
大阪大学ESSの余興でやったネタをアレンジしてコント1本、漫才1本を書いた。過去の財産があって本当によかったと思った。
大学のキャンパスプラザというところで公演をしたが、エアコンもない中、満員御礼だったので暑すぎた。劇団だるいのターンになったときに、「窓開けましょう。そしてみんな一回立って、のびをしましょう」と提案せずにはいられなかった。
お客様の前で笑いが取れた。大半は正直者達を観に来たお客様だと思うので、その中で笑いが取れたことで「自分に実力があるのかもしれない」と思えた。
ここまでは写真もほぼ残っていない。公演をやる、ということだけが頭にあって、それ以外にはまったく手が回っていなかった。これが公演最後、と思っていた(これから毎回思うことになるが)。次のための広報とかいう気持ちもなかった。
2009年11月 劇団だるい003「前略疾走」
[画像は劇団だるいホームページより]
はじめての外小屋。もう閉館した荻窪メガバックスシアターにて。
前回公演より2年が経過。仕事が大変だった。社会人2年目のラストに論文執筆を課せられており、それは「お祭り」と言われるほどに全員参加で負荷をかけてくるものだった。2020年現在では残業不可になるなど変化があるが、きつい行事である。正直言って、生きているだけで精一杯というか、何かが死んでいた2年間だった。
2年経過し、仕事でチーム編成が変わった時期。24時帰宅だったのが21時帰宅ぐらいになり、仕事内容も新しくて気分が変わったので、これまでよりはポジティブな心理状態だった。むしろ、躁状態だった。この躁状態でガンガン前に出たことで、自分が劇団だるいの運営のコア部分に近づいたんだと思う。民主的なものじゃなくて単に俺の声が大きかったというだけだし、やかましかったと思うけど、自分としてはありがたい役割を得られたと思う。
外小屋の経験はほぼない。座組全体としてもノウハウが溜まっているわけではない。やったことがある、という程度。その中で優秀なスタッフたちが空間を作り上げていく。本当に優秀で、前世でどれだけ徳を積めばこれだけの優秀な人材が集まってくれるのかと思う。
2005年の「天国は待ってくれる」以来、4年ぶりに新作「パソコン」を書いた。
「天国は待ってくれる」はいい芝居を書けたと思うと同時に、演出は心残りがある。当時は心残りゼロだったが、ほかの芝居を何本も観ていくうちに、もっと効果的でおもしろい演出がたくさん思いついた。再演できればいいな。苦労して書いたし、私の作品の基本路線である童貞賛歌の起点だ。
「パソコン」は、ここからしばらく続く擬人化シリーズの起点。衣装・メイクもバッチリやって、舞台に出た。
(「パソコン」より)
ほんとこの衣装、クオリティ高いな、、、
ここで学んだのは、「ウケようと思ってやる動作」と「舞台上で実際に自分自身の身体に起こった反応」のバランスだなと思った。同様のことを005のミュージカル太陽系のオープニングでも学ぶ。ここでは、あるステージでパソコンの電源コードの限界まで自分が動いてしまい、ひっぱられ、「なんやこれ伸びひんのか」と突っ込んでしまったとき。大ウケした。あ、やっぱりこの衣装、この作品はおもしろいんだと思い、次のステージではコミカルな動きを意識的にやってみた。ひとつもウケなかった。そのさらに後のステージでは、意識的なコミカルさは消して、パソコンとして生きる方向に舵を切った。よりよい観客の反応が得られたと思う。
後々、インプロに多く触れて「funny」と「interesting」の違いをより深く認識するのだが、No interesting, No laughだなと思う。FunnyなことをしてもInterestingがなければウケは悪い。
外小屋で公演ができる、ということがわかって、すごく前に進めた気がした。
(「オフ会」より)
(「ベッドルーム・ファルス」より)
(「熱〇殺人事件的なアレ」より)
(仕込み中。綺畸フリース)
2010年7月 劇団だるい004「ずっと週末だったらいいのに。」
[画像は劇団だるいホームページより]
ぜんぜん写真が残っていない。
しもきた空間リバティを初めて借りたとき。下北沢で芝居ができる、ということが自分で信じられなかった。
自分の実力以上のことに挑戦し、やりきることができた感じがする。
2010年1月に結婚、そのまま仕事でインド3か月滞在、4月に帰ってきてすぐ公演準備、という感じだったと思う。
メールを見返していると帰国して1週間以内に、前回公演の参加者を対象にしたリクルーティングに入っている。帰国前から相当、公演に対して気持ちが上がっていたんだろう。インドでの楽しさとストレス、日本に帰る悲しみと楽しみで相当ハイになっていた。
ちなみにインドではこういう生活をしていた。
インドでもヨガを習ったり野田地図オーディション書類を投函したりアイドルオーディション(一回戦突破)に出たりしていたので、公演への意欲は高かった。
「冷蔵庫の中」という作品を書いた。
冷蔵庫の中で忘れ去られ、腐っていく食材を描いた、擬人化モノ。
今読むとわけがわからないところも多々あるが、「人生最高の芝居を見た」というご意見すらもらった自信作となった。2020年10月現在、少なくとも4件の利用申請があった。台本としても魅力的なものがあるのかな、と思う。
今回も今回とて、当たり前だが、座組の総合力でおもしろいものができたなと思う。ぜったいに自分一人ではできないし、自分の思いもよらない提案で、どんどん公演のクオリティが上がっていく。チームの強みを感じた。学生にも多大な協力をもらった。参加してて楽しいと言ってくれたし、ありがたい。学生を引っ張り出すわけだし、ギャラも払えないんだから、せめていい経験は提供しなければならない。どうなんだろう、できてたとは思うけど、楽しくない人もいたかもしれない。だったら申し訳ない。少なくとも俺は最高に楽しかった。ありがとう。
「冷蔵庫の中」は長い。20分ぐらいある。以降の劇団だるいでは長尺モノは容赦なく削られることになる。ということで珍しい20分モノなんじゃないかな。カイワレの衣装は大島に「嫁入り前の女性にこんなものを着せるのかい」と言われた。着た本人は全力の芝居を見せてくれたので、救われた。
楽しかったなあ。
2011年2月 劇団だるい005「流星キャッチャー」
[画像は劇団だるいホームページより]
これもゲネ写真が残ってないな。
「ミュージカル太陽系」を書いた。
年も明けたのに、自分の台本がまったく精彩を欠いたものになっていた。最初は「太陽系」という名前のコントだったが、ぜんぜんおもしろくなかった。今読み返してもおもしろくない。ファイルの日付を見ると、2011年1月8日まで粘っていたようだ。
稽古場で大島に「書きたいもの書いた方がいいよ。何が書きたい?」と聞かれた。「ミュージカル」と答えた。実現性もなにも考えていなかった。「じゃあ書いてみなよ」と言われた。公演初日は2月25日。「間に合わないでしょ」と複数の人に言われた記憶がある。
そこから5日でミュージカルを書いた。歌詞も含めて。おそらく、もっともスピーディーに書けた芝居だったんじゃないか。大阪外大で「CHICAGO」に出てから、ミュージカルをまたやりたいという気持ちはずっとあった。やるとしたら英語のやつかなと思っていたが、日本語で自分にも作れるかもしれない、というシチュエーションは非常にアガッた。
そして、大島がすぐに作曲に入ることになる。これも毎週音源が出てくる。「ブラックホールの歌」はほんとに一瞬で出てきた。すげぇ。
そして、衣装に苦労した(俺の作品では毎回だ。すみません)。惑星を表現してもらいたいため試行錯誤してもらったが、球体にならない。フェルトを駆使したが球体っぽくならず、最終的には竹ひごと布になった。これもどうやって組めば球体になるのかで苦労したが、ハケにおさまりきらないぐらい、搬入口から入らないぐらいの球体ができた。どうやって保管していたのか。そしてどうやって運んだのか。そしてどうやって搬入口から入れたのか。これは、強引に突破したことを覚えている。
打ち上げのとき、飲み屋の天井から間接照明用の球体がぶらさがってて「これだ!」と叫んだことを覚えている。なぜ気づかなかった。
たしかこのあたりから、「きっかけ合わせ」という時間があまり取られなくなってきた。駒場ではひとつひとつ丁寧にやっていたが、難易度の高いもの以外はすべてゲネで確認することとした。
- 小屋入り当日:仕込み、場当たり、きっかけ少し、ゲネ強行。夜中まで修正作業。
- 初日:ゲネ2、ゲネ3、1ステージ目。
という劇団だるいでのおなじみのスケジュールの最初だったように思う。ひどい。
照明オペの後輩に相当な負荷をかけてしまったため、打ち上げでは中島みゆきの「地上の星」で机を叩きまくっていた。本当に申し訳なかった。
年間何百本と芝居を見るお客様に「15分なのに、ちゃんとミュージカルの構成になってる!」と驚かれたのはうれしかった。
こんなバカバカしいことをやってたのに、誇らしい気分だった。
2011年6月 4.9発目「轍」
[画像は正直者達ホームページより]
キーワードは「無価値」。
前回公演から4か月で次の公演である。ガス欠になった俺は稽古場でも家でも呆、としていた。「中野さんが無価値になった」と何度も言われた。無価値になったのは俺だけではなかったようにも思うが、無価値な俺は記憶すらあいまいだ。
「カリスマ下着ハンター」を書いた。
無価値な中野らしく(いつもそうらしいが)、話のつながりがぜんぜんない台本だったが、感動的な話になった。変態とは何か、変態と周りが言うことと本当の変態とはどういう違いがあるのか、そして理解されない孤独を表現したつもりだ。ラストの、大量の下着が天から降ってきてカリスマ下着ハンターが死んでいくシーンで「なぜか涙が出てくる」とお客様に言われたのはうれしかった。そうでしょう。
兄の「カリスマ上着ハンター」というアイデアも最高だったと思っている。伊藤敬市の「過、ご、せない!」は最高だった。
2011年11月 劇団だるい006「秋涙」
[画像は劇団だるいホームページより]
5ヶ月しか経ってないのか。この年はすごいな。
役者は男4名のみ。脚本・演出としてやってきた4名がお互いだけを俳優として使うという試み。固まった黒いダイヤモンドのような輝きがあったように思う。 もちろん4人だけで公演が成り立つわけではなく、本番中の舞台裏まで含めていろんな人に助けてもらった。贅沢。贅沢な日々を過ごしていたんだと思う。
脚本家としては中編を1本出す、というスタイルが続いていたが、このときは中編「秋涙」の他に短編「法廷」も出した。
「法廷」は自動筆記を試した。今見返してみても天才的だなと思う。こんなもの、書けるわけがない。二度と書けない。どんな台本だってそうだけど、この時は神がかっていた。自分で言うのも恥ずかしいが、神がかっていた。ビギナーズラックかもしれない。味をしめて、この後も自動筆記を試してみたが、面白いものはできなかった。またやってみたい。多かれ少なかれ、台本書いている時は自動筆記みたいな瞬間がある。脳の稼動レベルが上がったみたいで気持ちいい。
「秋涙」。よくこんなブロークンハートのラブソングが書けたなと思う。あり得ないような設定もあるんだけど、なぜか信じられる。ラストの叫びからのカーテンコールは美しかった。直前まで脱ぐコントとほぼ全裸のコントをやっていたとは思えない美しさだった。
2012年3月 劇団だるい007「春眠」
[画像は劇団だるいホームページより]
2012年4月からイギリス勤務が決まっていたため、渡航直前の公演となった。その背景もあって、かなり好き勝手やらせてもらったように思う。
脚本としては「春眠(二度寝)」「鼻の穴」「春眠(睡眠薬)」を出した。
「春眠(二度寝)」は構成のみ自分で、ネタはみんなで作った。ワンアイデアのシンプルなコント。こういうコントで笑いが取れると、いいアイデア出したなあという気持ちになる。
「鼻の穴」は擬人化シリーズ。「もはやお手の物ですね」と言われた。「このお話は、あなた方の時間からすれば、1 秒にも満たない間での話です」「俺らがいっしょに食うメシって、何なんだよ!」という名台詞が飛び出した。ありえない哀しさ、ありえない寂しさ、でもあるかもしれないものを書けたと思う。
「春眠(睡眠薬)」はワサビを食うシチュエーションコメディ。本当に苦労した。これまでの公演でも苦しみながら執筆したわけだが、また格別な苦しさだった。作った台本は、劇団だるい作家陣にさんざんに削られた。「おもしろくない箇所は削る」というポリシーの下、作業したら台本がほぼ消えてしまった。つまりおもしろくなかったのだ。いやーなんてありがたいチェック機能だ。そこから膨らまし、また削られるというのを3サイクル繰り返した。家でもカフェでも執筆できなかったので、電車で書いた。俺の集中力のなさと虚栄心を利用した、いい手だったと思う。「いい脚本を書く、それはすごいことだ! みんな見てくれ!」という虚栄心と、どこにも逃げられないという制限があって、怒涛のように書けることがあった。ただ、満足いくまで書けないと電車で引き返せないため、終点まで行ってしまうこともあった。三崎口に初めて行って「ここはどこだ。でもまだ書けてない。もっと遠くへ」と、どこに行くかもわからないバスに乗った。銭湯を見つけたのでバスを降りた。浦賀にも行った。「ここはどこだ。でもまだ書けてない。もっと遠くへ」と思ったがバスも来ないしタクシーは高い。歩いていると銭湯を見つけた。超熱い銭湯だった。いっしょになったオッちゃんに「いい脚本が書けないんです」と泣き言を言っていた。黒磯方面の電車にも乗った。しかし計算すると黒磯まで行くと終電でも帰って来れないことがわかり、慌てて降りて引き返した。その程度の人間か、と自分をなじったが、まあ、安全第一だ。とうとうもう、本当にギリギリになって、ラストチャンスで千葉方面に行った。結局本千葉まで行って、また銭湯に行くことになる。刺青の人がいっぱいいた。みんな明るくていい人だった。帰りの電車ではグリーン車を取った。ラスト1時間、ここで仕上げることになる。座組の協力もあっていい芝居になったし、利用申請も何件もあるので、いいものを残せたんだなあと思う。
2012年11月 劇団だるい008「全力疾走」
[画像は劇団だるいホームページより]
イギリス勤務中だった。が、「夜の帰り道」を書いて、遠隔で演出した。台本を見返してみると、Excelで書いていた。セリフの列、舞台上での役者配置の列、音響列、照明列、メモ列、などなど。遠隔で演出するために、視覚で伝えられるところは台本に表現しよう、という考え。これは非常にいいと思っている。もちろん、脚本・演出の個人の時間を食うわけだが、稽古場で「どういう配置にしようかなあ」と悩む時間を削れる。みんなの時間を有効に使える。まあ、みんなを見てみないと演出できないことも多々あるが、、、。不器用な人間を描いた。こんなにうまくはいかないだろう。コントだからこうなるんだが、きっと、もっと何も言えなくて、逃げるか突飛な行動を取るかのどちらかになるだろう。恋に悩む人、というよりは、恋のきっかけまで行けないつらさを描けたと思う。
演出は、土壇場では日本にいるみんなに任せたのだが、海外から演出してみようというトライができたのはよかった。打ち上げはポーランドから遠隔で出た。打ち上げ会場に居たかった。
2013年7月 劇団だるい009「I will say goodbye.」
[画像は劇団だるいホームページより]
3月に帰国、すぐに準備に入った。宣伝美術から、008は中野不在の写真だったから009は中野写真にしようかと思うと言われ、超うれしかった。かっこよく撮ってもらった。
ここの脚本も難航した。佐溝・中野の合作によるミュージカルを書いたのだが、お互い忙しすぎて台本がぜんぜん進まない。もう稽古を詰めていかないと間に合わない、となり、浜松町のビジネスホテルで交代で休みながら台本を朝までに書き上げた。めっちゃしんどかった。が、書けた。
2014年2月 番外公演「Don’t know why」
[画像は劇団だるいホームページより]
2014年9月 劇団だるい010「This Planet is Ours」
[画像は劇団だるいホームページより]
2015年7月 劇団だるい011「The Goal」
プレ公演の写真。プレ公演では本番当日に役者体調不良による降板があったが、台本修正してなんとか乗り切った。そしてスタッフには「きっかけを確認する時間がなく、すいませんがイイ感じでお願いします」とお願いするという事態。それでもやりきるんだから本当にみんな優秀。
プレ公演は本物のカフェで公演。カフェで芝居できるっていうのはテンション上がったなあ。
5月末にプレ公演、7月初旬に本公演という形をとった。この2月に異動になり、非常につらい仕事をしていた。きつかった。6月上旬に適応障害と診断され、私傷病による休職となった。ボロボロである。この休職は12月まで続くことになる。いったいなんなんだ。人生を考えるわ。
劇団だるいは、これまでは「複数人の作家がそれぞれの作品を書くオムニバス公演」だったが、今回は「複数人の作家が1本の作品を協力して書く公演」とした。我々は「ベイマックス方式」と呼んでいた。誰かがメインライターにならないと進まないということがわかったが、ベイマックスではどうしてたんだろう、、、メインライター方式なのか、プルリクエスト方式なのか、、、
木星劇場で、カフェ形式で芝居をした。いつもの劇団だるいの感覚と全然違ったが、劇場も自分の状態もコントの形式もぜんぶ違ったからだろう。この公演後、5年ほど経つ。「まただるいやらないんですか」とときどき聞かれる。いつかはやると思う。おそらくその前に中野作・演出作品の芝居を一度はやると思う。「見ていたい」という脚本を考えている。
2016年6月 五発目「嘘吐き2」
[画像は正直者達ホームページより]
脚本・演出は担当せず、役者としての参加。 稽古中にぎっくり腰になったのが強い思い出としてある。 本番もかなり危険な状態で、周りに気を遣わせながらの公演となった。
本当になさけないわ。
役者に集中できてよかったという気持ちもあるし、きっかけ会議やスタッフとの打ち合わせに呼ばれないのでそのぶん休めたのはありがたかった。
信原さんとやった「或るBARで」はコントなのだが、序盤の大人なやりとりが本当に好きだった。ああいう大人になりたい。
「マルセの女」は単なるセクハラではあるのだが、行き過ぎた正義と悪ふざけを使った秀逸なコントだと思っている。やってて本当に楽しかった。岡ちゃんはよく分かってる(分かってないことがよい、ということをよく理解していた気がする)。
2018年5月 7発目「追われる二兎」
[画像は正直者達ホームページより]
本当にきつい公演だった。だが、いままでで最高の芝居もできた。
佐溝さんとの二人芝居。自分の脚本が難航した上、芝居もそんなによくないという状態がつづき、不眠を発症。公演中止を佐溝さんに申し入れた。が、話し合いの結果、とりあえず続行ということになった。ギリギリの状態で、生命維持モードで残り三週間を乗り切った。楽しい、とかではない。やりたい、とかでもない。やるんだ、という立ち向かう精神でもない。さりとて逃げ出すわけでもない。漂流だ。流木につかまる気力もない。たまたま流木にひっかかり、少しでも動けば沈んでしまう。だから動かなかった。思考を停止させ、ゾンビみたいな日常を過ごしていた。稽古が終わって家に帰るときに電車の窓に自分の顔が映る。死相が出ていた。父親が死ぬ前の顔のシルエットと酷似していた。親子だから似てるのはしょうがないとして、そこまでか、と。
それでも公演になったのは、佐溝さんをはじめ、周りの人たちが私のゼロ作業の割を食ってくれたからだ。本当に申し訳ないし、ありがたく思う。
公演として心残りはある。元気いっぱいだったらもっとこだわりたい脚本、演出、芝居はいくらでもあった。それでも、公演のビデオを見返してみると、これまでで最高の芝居をしていた。今まで学んだことがちゃんと身についている。ふとした相槌、相手からの影響、自分の爆発、そういうものが今までで最高のレベルでできていた。
ああ、俺は芝居ができるんだ、と思った。
書いたのは「隣の青い芝生」。 つらかったなあ。それでもまだ芝居やるんだもんなあ。
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